草凪家の夏







 それはまだ幼い頃の、小学校低学年の夏のお話。


ゆさゆさ……
 揺さ振られるがまったくといっていいほど反応がない。

……ゆさゆさ……
 しつこく揺らし続ける。だがその行為は御沙にとって、あたかもゆりかごを揺らすかのように
心地のよい眠りを継続させる。

 古時計が夜の家に響く。
ゴーン……ゴーン……ゴーン……
 三時の鐘が鳴っている。滅多にならない古時計の音が低く重い。

……ゆさゆさっ
 ちょっと意地になったのか、強く揺らし続ける。
 無反動に御沙が寝返る。

「……あ゛」

 なんともいえないうめき声を上げ始めている。

「ん……」

御沙はうっすらと瞳を開けた。

「……?」

 体を起こした御沙の目に映ったのは、いつも起こしにくる氷河の姿ではなかった。

額を押さえた一つの姿。
 同時に右手が妙に痛い。手の甲が赤く腫れていた。
目覚めたことを感じたからか、真剣な顔をこちらに向ける。
 白い、御沙自身と同じぐらい幼い少女。周りは暗いというのにくっきりと浮かび上がって
いる。真っ直ぐとした瞳も、肌も、唇も、何もかも白い。

「……起きた?」

 体を起こし、漠然と見つめ続ける。
 抑揚のない声には感情の色が感じられない。
夜だからか、その格好だからか、その寒さを感じる空気と雰囲気だからか。
御沙は一つの話を思い出していた。

 雪女の話。寒さで凍えて死ぬところを助けた若者に恋をする。そして返して、自分のことを
打ち明けずにいてほしい、と。やがて年月がたち、若者に妻を娶る。そしてついに言ってしまう。
雪女にあったことを……その妻が、雪女とも知らずに……
御沙はその儚い話がお気に入りだった。同時に、ハッピーエンドになるようにはならないのか、
とも考えていた。

「あ……」

 御沙は再び目を閉じた。

「……寝ないで」

 布団に吸い込まれるように倒れようとしたところを掴まれる。首筋に痛みが走り、再び御沙は
目を開けた。
 夢だと思った。そのまま寝てしまいそうになった。
ほんのりと暖かい手。何か言葉を言っているが、聞き取りにくい。

「……り……ぅ」

 喉を押さえ、声が出ていないことに気づき、半ば呆然とした顔で御沙を見る。

「りぅ? 名前?」


 難しい顔になり、腕を組んで考えている。しばらくして小さく、両手でマルを作った。
顔に表情はない。今にも消えてしまいそうな雰囲気がある。

「……りぅちゃんね。で、どうしたの?」
「……呼ん……でる……」

「……何を?」
「……あなた……と、もう、一人……」

「……もう一人? ひょうちゃん?」

 こくりと頷いた。





そもそも、ことの起こりは、敏感すぎる耳のせいだった。しかし、気づかなかったら、
どんなことになっていたのか、わからない。この判断が正しいのかも、氷河には理解できない。


「…………」

 張り詰めた糸が切れる音がした。氷河はその瞬間に目を覚ました。
どちらかというと寝起きがいい。物音がするとそれだけで起きてしまう。熟睡はしているが、
長い時間寝ることは、昔ながらの習慣からできない。短時間で十分なのだ。

 布団から抜け出、周りを見回す。異常はないのを確認すると、素早く、だが物音を立てず、
機敏に動く。手探りに落ちている鉄の棒を忍ばせ、鉤縄を腰につける。

 氷河の部屋は茶室だ。皇華の命令でこの部屋で暮らしている。
 元は四畳半ほどの茶室だったのだろう。古い作りで、光を入れる窓が天井に、唯一の
出入り口はにじり口で、しゃがんで入るようになっている。窓は二つ。その中の一つは
御沙の部屋が見え、もう一つは北側だ。その北側に反応があったのだろう。

 布団から抜け出て、窓辺に移動し窓を見る。
 不意に古時計の音が鳴り響く。ビクッとして、周りを見回す。外に人影はない。
鐘の音は二つ。
二時、丑三つ時……嫌な言葉が頭に過ぎる。

「……ぁ?」

 窓の外、目につくのは意外なものだった。
 ただ、火の玉が浮かんでいるだけ。
 氷河ぽかーんと口を開いていた。頬を掴み、捻ってみる。
痛かった。夢じゃない。また張り詰めた音がまた一つ。触れたり切れたりしたら聞こえる。
もしかすると、誰かが黒い服を身に付け進んでいるだけかもしれない。目を凝らして見つめ
続ける。
だが、影一つ浮かび上がらない。ただ、ゆらゆらと火の玉が近づいて来る。
糸を切りながらこちらへ、屋敷へ、この部屋へ……

 音を立てずに、じりじりと後ろへと退く。
この部屋はそこまで大きくはない。すぐに、背が壁につく。大きな音はたてなかったのが、
頭を冷静にさせる。
 突き上げ窓と呼ばれる屋根にある天窓を見る。壁にある糸をゆっくりと引いた。

 窓が開き、外から冷たい空気が流れ込んでくる。暑い日々が続いているが夜はまだましだ。
鉤縄を投げる。金属音が微かにした。気づかれなければいいと思い、しっかりと
引っかかったかを確かめるように何度か引っ張る。
素早く登り、しゃがみ下の様子を見る。火の玉がゆらりゆらりと近づいてくるのを確認。

 暗闇の中でも氷河の目にはよく見えている。
正体を見極めなければならないが、まずは何よりも……
天井を伝い、歩き出した。
雨が、一滴、頬を濡らしていった。
月光のある。天気だけど雨、それを「狐の嫁入り」と誰かが言っていた……




「御沙……」
 まず心配したのは御沙だった。いざとなったら起こしてやろうとも思ったが。
御沙に何かしらあったら、後がうるさい。だから、守らなければと思った。

 しかし、一度寝た御沙を起こすのは至難の業だった。加えて寝相が悪い。部屋の中を移動して
いたり、裏拳、蹴り、寝ぼけた一撃はいつもの御沙の攻撃とは違い重いものだ。

それが原因で襖や障子に穴が開くこともしばしばだ。

 ぐっすりと眠っている。実に幸せそうだ。その寝顔を見てほっとする。

と、不意に足音がした。慌てて、押入れに身を隠す。わずかに開けた襖から覗くように様子を
伺う。
 隠れてから思う。隠れる必要はあったのか、と。

 白い人が入って来る。服も、肌も、髪も白い人がゆさゆさと揺らし始める。

 起こそうとしているか? そんな生ぬるい方法では無理だと氷河は思いながらも
この不審人物は敵と判断した。起こす役を奪われるのは気にいらない。
氷河は鉄の棒を抜き取った。

襖を開けようとするが、白い人の後ろに何か見え始めた。

 それは刀のようだった。一振りの刀。飾りや鍔すら見当たらない。抜き身の一刀。
その刀を取り巻くように一匹の巨大なびっしりとした鱗をしたものが巻きつくように
現れた。

 覗いていた氷河は全身汗だくになっていた。
何故か怖れている。何故か震えが止まらない。何故か体が動かない。

 視界に、白い人が見えなくなっていた。代わりに巨大な目がこちらを見ている。
巨大な口が襖をすり抜け、氷河の目の前までせり出している。

 声もでない。体も動かせない。目を見開いて見入る。

 巨大な口が開く。
このときになって、これを何というのか、思い当たる。
『龍』
 日本にも、この地方にもいる神、雨を呼ぶ神、自然神、天災を起こす神。


氷河が起きた時……
「……なん、なんだっていうんだ……くそっ、御沙は……」
御沙の姿はどこにも見当たらなかった……
氷河は慌てて部屋を飛び出た。


「りぅちゃんはいったいなぁに?」
「?」

 質問の意図がわからなかったのか、首を傾げる。

「お化け? 幽霊? それとも雪女?」
「…………」

 御沙の問いかけに、りぅと名乗った(?)白い少女は両手を組んだ。
人差し指で唇に当てた。

「……ヒ……ミツ」
「……うー」

 御沙は低く唸る。その光景に肩を竦めている。

「……私は……まだ色が……ない……だ、から、時が……来る、ときまで……は、ヒ……ミツ……」

 御沙は首を傾げた。

「色鉛筆でよければ……」
「……その色、違う」

 りぅは困ったように言った。さっきまでとは確実に無感情な声ではなくなっていた。

 比較的近い場所に氷河の部屋がある。廊下を歩き、渡り廊下を越えたところにある。
トントンとノックをし、にじり口の戸を開けた。

「ひょうちゃ……」

 御沙は硬直した。
 氷河の部屋にはゆっくりと揺らめくように青い火の玉が浮かんでいる。しばらくぼ〜と
凝視した。りぅが近くに行き、何やら話しだしている。
脳が停止した。真っ白になったまま、あるがままを見つめ続けている。

「……いないって。逃げたみたい」
「……困ったな」

 その鬼火の横に、また一つの影が現れた。長身の、影。

「君が、御沙、だね? 麗に……」

「……あぅ」
 話しかけられ、御沙は気絶した。慌てた声と、ペシペシと叩く冷たい手があったが、
御沙は倒れたままだった。






 御沙の部屋を出、落ち着くために水を飲んだ。真っ白になった頭が働き始める。

―――違和感に気づいたのは、その時だった。
廊下の明かりから外の中庭の様子がおかしい。
 雨が降り出している。これは問題はない。雨音も規則正しく鳴る。これも問題はない。
 問題があるのは、窓の外にはまるでドライアイスを敷き詰めたような白いもやが地面を流離っていたことだ。

「なんだ、これは……」

 月光が消える。雲に隠れたのか、と空を見た。
 乾いた汗が再び噴出してきた。いつこの屋敷は人外魔境の世界になったのか。
氷河は理解できなかった。
 父の言葉が不意に蘇る。
……夜は夜の住人がいる……

 そう、目の前で起こる光景を見て、正気ではいられなかった。
降り始めた雨、屋根から落ちる水が人の形を取り始めた。
信じることができなかった。直視することができなかった。

 壁に張り付き、その光景を見ていた。壁が冷たい。
どちらかといえば、現実で起こったことしか信じない氷河だが、この異常事態で頭が混乱
しかけていた。
 冷静に判断できない。そんな状態だ。
 一歩退く。

「だ、誰?」

 声がした。この声で氷河の頭は真っ白になった。
 知らずうちに足音を立てる音が耳につく。いつもならばしない。だが、もう気にする
余裕はなかった。


 氷河は臨戦態勢をとりながらも、足音をたて逃げていた。
先ほどの『龍』のこともある。今度は気絶しない。
 まわりには人の姿も、不可思議な気配も感じられない。
 口の中が妙に乾き、汗が吹き出てくる。

「……っ」

 悲鳴を上げそうになった。薄明かりの中、闇が濃くなったように思える。

また『龍』の仕業なのか。それとも水の化け物なのか。下唇が痛い。いつのまにか噛み締めていた。

 怖いと思う心を壊すように、気をしっかりと持とうとした。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 胸の、腹に蓄えてある空気が一気に吹き出た。
首を掴まれた。凍えるような冷たい手が首を掴んでいた。
 その瞬間、全身の温度が急速に奪われるような感覚に襲われた。いや、本当に
そうだったのだろう。たとえるのなら、渓谷の川の中に放り込まれたような、
もしくは夏だったのが一瞬で冬になったかのような温度差を感じたのだ。
暴れ、無我夢中で拳を振るう。

 まるで手応えのない感触だ。べちゃと飛び散る水滴。
しかし、氷河の目にはそこにいるであろう人の姿は見えない。

「っっ!!」

 人じゃなかった。

 叫びだしそうになる声を必死に押し殺した。喉に詰まって空気がいかなかった
だけかもしれない。

 水の塊がそこに立ち上がる。
 冷静にものを見ようとした。だが、乱れた心はそう簡単には戻らない。
素早く鉄の棒を取り出した。顔面に向かって手首の力だけで投げ飛ばす。
だが、当たっただけでダメージを与えた感触がない。

 両手を差し出し歩き出す影。歩く度に水音がし始める。
 廊下を照らす一瞬の雷光。 

 影は人の形をした水だった。顔もあり、口もあり、目もあった。

「ミツケタ」
「ミツケタ、ミツケタヨ、ミツケタ」
「アナタダッタノネ」
「ヒョウガクン」

 水の塊が歩み寄ってくる。ゆっくりと確実に近寄ってくる。
暗闇に戻った時、足がからまりそうになりながらも、全力で走り出した




「……な、なんだってんだ……クソッ」
 乱れた息を整えながらも毒つく。パジャマで汗と涙を拭く。
ここは布団部屋。普段は使われない。それが故に氷河と御沙の隠れ基地として
使われることが多い。布団部屋には多くの布団が並び、積み重ねてある。
何畳ぐらいかはよくわからない。その布団の積み重ねの間に、氷河は屈みこん
でいた。

「……いや、まず対抗する手段。しゃれにならない……」
 混乱した頭でシミュレーションしている。勝つための手段ではなく、逃げる
ための方法を。
 いつのまにか身に着けている鉄の棒も鉤縄もない。

 頭の中で、どうする、どうする、と呟く。考えがまとまらない。
考える。どうしたらいいかを考える。
 すぐに一つの決断を下す。
武器の確保を優先する。そのための問題は……
 廊下を突っ切るのは危険なような気がした。またさっきの影がいるのかも
しれない。また得体の知れないものがいるかもしれない。
 庭に出るとしたら。窓に行き、外を見る。まだ怪しげなもやがあった。
この中を突っ切るなんて……ちょっとぞっとしない。
ならば……
 氷河は天井を見た。



 氷河はその道を選んだ。
 いや、考えられなかった。消去法で残ったものを選んだ結果だ。
天井裏……
 道らしい道ではない。下手をすれば、感電の可能性も含まれている。だが、
滅多に通らないからいないに違いない。
 上の押入れを開け、中にある毛布をひきずり落とし、よじ登る。
押入れの中は部屋に一つ天井裏にいける場所があるのだ。

 手探りで押し上げ、ようやく屋根裏にいける場所を発見した。
 ゆっくりと押し上げ、顔だけを覗き込む。一段と濃い闇がそこにある。周りを
見、登ろうとした。だが、足が止まってしまう。
急に胸が強く鳴った。不安気に周りを見回す。
 何か物音がした気がしたのだ。素早く左右を確認する。何もいないことを確認
したほっと一息ついた。
 その瞬間、何かが頭を踏み台にした。

「っっっ!!」

 叫びたくなる声を再び噛み殺した。目を凝らしてよく見る。
闇の中にシルエットが浮かぶ。何かを認識するよりも早く光る目をこちらに
向けた。
 頭が真っ白になった。
 腰が抜け、頭だけ天井裏を覗く形になったことが幸いした。頭の上を通り過ぎた。
背筋を走り抜けていく悪寒。奇声が上がる。
 舌なめずりをする音がした。取り巻く目の数が増えている。

 転がり落ちるように、押入れから転がり落ちた。布団の山に着地し、素早く閉めた。
カリカリカリカリと音が立つ。
 氷河は走る。この部屋からもつれる足を必死に動かし、両手で床を掴むように、
獣のように走り逃げる。

「く、くそ……なんで屋根裏に化け物がいるんだよ」

 毒ずきながらも涙がこぼれた。




 さんざんな目にあった……
 もうどこをどう走ったのかわからなくなっていた。
 大広間のテレビからは急に電源が付き、画面から長髪の濡れた女の人が出てきた。
台所スペースでは突然水が流れ出し、ガスコンロからは触れずに火がつく。
廊下には影と青白い火が出てきた。

 全ての怪奇現象に、氷河は逃げ切ることができていた。



「夜が明ける……」

 一番高い屋根で大の字で倒れていた。
頭が痛い。こんなに起きていたことはないからだ。
白んでいく空が揺れている。

「……寝てしまいそうだ……」
「……」

 うっすらと明るくなってきた。体から熱が抜けていく。また一段と強く風が吹いている。
冷たいけど、妙に暖かい、そんな風が……

「……で? もう逃げないのか?」

 懐かしい声がした。

「……もうダメ」
「……少しは、平常心を保たねばな」

 氷河は顔を上げた。何か人間の影のようなものが立っていた。
両手を組み、嬉しそうな、でも困ったような不思議な顔をしている。
体を起こした。倒れている場合ではなかった。

「氷河。相手がなんであろうとも、忍びは平常心を持たねばならない。精進せよ。
大事なものを失うことのないように、な……」
「父さん?」
 声が風にかき消される。

 影が消えた。
もうそこには何もなかった。夜明けの光にただ、さっきまでとは違う涙がこぼれていった。



「……お〜い、御沙〜」
 ぺしぺしと額を叩く。
「……御沙ちゃんたら……」
 困ったように見下ろす二人がいた。

「寝起きが悪いヤツだが、ここまで転がってくるのも才能だな」
「……そうですね〜御沙の部屋から私たちの部屋の前まで結構離れてますし」

 うなされているようで、何か呟いている。

「うぅー……お化け……お化け……」
「あらあら、相当怖い夢みたんですね〜」
「やれやれ……」

 皇華は御沙を抱きかかえ、部屋に入っていった。




その日の朝食……
 今にも泣き出しそうな顔を皇華に向けていた。
「お父さん……」
「ん?」
「お化けとか妖怪とか、いないよね? ね?」
「ふむぅ……」
 皇華は視線をさまよう。天井の端を見、障子のほうを見、改めて御沙を見る。
涙できらきらとした目が、鋭利な刃物のようにも思える。
視線を泳がせていると、こちらをジーッと見つめる人たちと目があった。
その人たちは、「いますよね」というのと「否定しませんよね」と二つの意味があった。
痛い視線に片目を瞑った。
「あ〜御沙……」
 すっかりトラウマになっているようだ。注意を呼びかけなければならないかとも思いながら。
優しく頭を撫でてくる。なんとなくほっとした感じで皇華を見上げる。期待に満ちた目だ。
一同の視線が注目し、無音状態となる。

 実に気まずい雰囲気だ。
人差し指をたてて、皇華は言った。
「……話してみれば、いいヤツだぞ?」
ピシッ
 御沙の顔に緊張が走った。嫌な音を立てて……
「お……」
「お?」

 首を傾げ、御沙を見る皇華。ほろりと流れ落ちる涙。

「お、お父さんがいじめる〜」
「なんでだー」

 麗の元へ走って逃げる御沙を見ながら思わず大声になった。

「う、嘘はいってないぞ、現に……」

……誰も皇華の話を聞いてはいなかった。





小説へ戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送